3.11の大震災 あの日からの5年 私はどのように過ごしたのか? 追想追想!

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この写真3回目の投稿となると記憶する。2011年、3.11の震災後3.14の日、大好きな石巻石ノ森萬画館の近くの橋の上、車、船、車、船・・・・と信じられないような光景を撮った写真である。尚、渡波の写真はないのですが、この写真を遥かに超える想像を絶する光景ででした。

先の投稿と同じ文面の後に、年次の記憶を辿り綴りたいとおもいます。

3.11の当日は昔の会社の本社新宿での震災に出くわしたのであった。翌日には新宿から埼玉の入間から救援物資を車に積み込み、佐野で大型ワゴンに乗り換え(ナビ付)ではあったのであったが全然機能しなかったことを覚えている。

高速道路は当然の如く通行止め、4号線を中心に走れる道路を探しながらの走行であった。一番の被害は福島県であった。後日、余震の宮城県沖地震でほぼ宮城県福島県は同等の被害にあったとの高速道路を通った実感であった。

13時間をかけて自宅に着いたのであったが、疲れの為か熟睡した。目が覚めたのは13日の午前であった。翌日は会社での救援物資を社員に配り、その後の石巻訪問となったのであった。後でわかったことなのであったが、ベットの上はガラスの割れた破片が覆いその上に寝ていたことが後日判明、太陽光発電の自立発電で電気を得たのも数日後であったのであった。

その後、震災で高速道路も無料であった事と、住まいの修復をしようにも全く住宅メーカーが忙しいため、特に沿岸部の被災地がひどいため、遠慮もあり何もする気力もなかったため、日本全国訪れたことのない、九州は鹿児島と四国は愛媛、徳島、高知の4件を真夏に巡ることにしたのであった。

走行距離は3,800Km、7泊8日であったと記憶している。この時に感じたのは、夏の九州は気温は高いのであったが、湿度が低いため、東北より過ごしやすい記憶があった。又、九州四国は山に家々がへばりついて建てられているので、よく見る土砂災害が部分的に多いのだなあ~と思った次第である。

2012年は父が亡くなった年であった。それに先立ち行っていた、古い本宅を始め、昔農家であったため、豚小屋とかの7つ位の古い建物が崩れ始め危ないので解体をしたのであった。

2013年は新宅の家の石膏ボードがツーバイフォーの為か、悉くひびが入るなどの被害があったので、やっとのことで、住宅メーカーにお願いし、修復作業をやっていただいた。又、お墓の法名碑が真っ二つに割れるなどの被害もあり、新しいものに再建したのであった。更に復興のシンボルともいえる、閖上のハマボウフウを植える。この年孫の詩穂チャン2700g生誕。

2014年は勤め先の部署が川崎に移動せよとの会社命令が下り、母が高齢であった事や、地元の社員退職が予想される中、定年まじかということもあり、自己都合退職をせざるを得なかったため、41年を務めた会社を退職。そこから、街角コンシェルジュ、Web初級でのホームページ作成、6次産業化などのセミナーを次々に受講。

2015年は縄文文化10,000万年間続いた平和な時代への思いを馳せ、現代の閉塞感を打破するための文化を探求する考えを観光を通じて深め合い、現代に取り入れていく事で、幸せな人生、平和な社会を築ける様に、世の中に貢献していきたい。との思いから、国内旅行業務取扱管理者の国家試験を受けることを決意し勉強に明け暮れ合格したのであった。同時にエブリディイングリッシュの英会話も同時に学び外人客の観光にも備えるようにしたのであった。

2016年の今は、やっと第3種の旅行業の申請を2日前に県知事に申請し、観光業のスタートラインにつけるように準備中なのです。ひとりビジネスなのですが、青色申告を申請すべく、MFクラウドを今から使用中です。

今後の事は分かりません?

しかし、私の旅は既に始まっていたのではないのでしょうか?会社を辞めた時点で、本当のこの地球上での旅が始まっていたのではないのか?と感じるようになっている自分がいるのです。この事業が、成功する?成功しない、といった次元ではないのです。やっていること自体が楽しいのです。又、充実しているのではないかと感じているのです。

それは、多くの人との交わり、話し合い、それは同じ環境だけの人ではなく、年代も違う。友人は24歳から82歳まで広がり、職種は色々、老若男女と正に多種多彩と言えるでしょうか?

最後に、東日本大震災の余震は2008年から2015年までの回数は276回、228回、212回、8112回、1583回、1023回、744回、615回となっている。このデータが貞観地震とか、その当時からの推移がわかると今後の見通しが立つとかはないのでしょうか?

いずれにしても、皆が前を向いて生きられるような世界を目指したいものです。